Monday, March 22, 2010

ミラノのマドニーナとの出会い

 
[ミラノの中心のドゥオモ広場]

マドニーナとは

ヨーロッパの冬は暗く長い。住み始めて初めて知ったのだが、“太陽の国”と思われているイタリアも例外ではなかった。イタリアの文化は冬に育み、夏に開花する。華やかさと深みが両立する、ここの文化の秘密だ。
イタリアの街の中心には、必ず「ドゥオモ」と呼ばれる教会あり広場がある。まず、中心を定めて、そこから放射状に道を配置するのが、イタリアの街の作り方のセオリーである。ミラノのドゥオモ教会はマリア様に捧げられ、その突端では黄金に輝くマリア様が街を見下ろし、いつも見守っている。ミラネーゼ達は、 この街の守護聖人である聖母マリアを「マドニーナ」と呼び親しんでいる。

2002年の冬のある日、私は道端で写真用の三脚を見つけた。なかなか大きくて丈夫なプロ用のものだった。人通りの多いその歩道に横たわる三脚の周りを、歩行者達が避ける様に歩いていた。それは不思議な光景だった。こんな大きなものを道端に忘れるとは、どういう事だろう。そのフォトグラファーは、撮影の後、よほどの急ぎの予定があったに違いない。一週間前から約束していた親戚とのディナー、もしくは新しい恋人とのオペラ鑑賞の約束だったのかもしれない。
人通りの多いその歩道で、その三脚は明らかに邪魔な存在で、歩行者達の障害になっていた。立ち止って一瞬ためらったものの、私はその三脚を拾う事にした。
その日、私はファッションショー関連の撮影の仕事をしていた。毎年2月に行われるレディースのミラノ・コレクションの時期だったからだ。連日の仕事で神経を多少すり減らしていたものの、スポーツをした後の心地の良い疲労感のような感触もあった。そし て、その三脚を片手にボーッっと何も考えずに歩いていた。

はからずも揃った機材

ミラノの中心のドゥオモ広場にさしかかった時、その日が満月である事に気がついた。そして、広場の真ん中ぐらいに来た時に、その満月がドゥオモ教会の突端にある金色のマリア様の真後ろにあって、後光を差しているように見えた。しばらく、あっけに取られて、ただ見ていた。しばらくすると、雲がマリア様の周りを避ける様に動きはじめていた。マリア様のオーラが雲をコントロールしているようだった。

ふと我にかえった。ファッションショーの為に使っていたカメラにはすでに望遠レンズがついていた。フィルムも高感度のものが入れてあった。しかし、夜の風景は光量が低く、8分の1秒か、もっと遅いシャッタースピードで切らなくてならない。望遠レンズとの組み合わせだと大きく手ブレが出てしまって良い写真にならない。 ファッションショーの仕事では邪魔になるので私は三脚を使わないのだが、その日は、直前に偶然手に入れた三脚があった。はからずも、拾った三脚のおかげで、機材はすべてそろっていたのだ。 

 [2002年の冬に撮影した、ドゥオモ教会のマドニーナ]

拾ったばかりだったので、まだ慣れない三脚だったが、慌ててそれを広げて、その上にカメラをのせた。この三脚のおかげで、手ブレが防げたわけだ。ファインダー越しに見るマリア様は,とてつもない無限のエネルギーを発散していた。カメラを覗いていると、雲の動く速度は普通に目で見るよりも、とても早いのが分かった。
満月の月の光が、雲に反射して、その力を増幅させていた。みるみるうちに、マリア様が放つオーラをかたどる様に、そこだけ雲が裂けていった。見事にマリア様のオーラを月光と雲が表現していた。もしくは、月、光、雲、空気などがマリア様への尊敬の念をあらわにして いたようなようにも受け取れた。仏教画で言う後光と、キリスト教美術で言う聖人頭部の正円のアイデアを混ぜた様だった。映画の特殊効果の様な光景が、現実の目の前で繰り広げられていた。
ミラノのゴシック様式のドゥオモには、金色のマリア様が中央の突端に、その他の多数の聖人たちの彫像が、その周りにある。その聖人達が、マリア様の言葉を静かに聞き入っている様に見えた。マリア様のメッセージを一言一句、全身全霊で彼らは受け止めていた。
「そうか、マリア様は他の聖人達よりも一つ高い位置にいる」
マリア様はドラマチックに女性エネルギーを顕現させ、世の中を慈悲の心で包んでいた。私も聖人達同様、試しにマリア様の言葉に聞き入ってみた。
ファインダーを、息をのむ様に丁寧に覗き込み、自分の心臓の鼓動を押さえ込みながら、シャッターをたくさん切った。しばらくして、マリア様は何かを言い終わって、自分の気配を、いつも通りに戻した。そして、あっという間に厚い雲が満月を覆ってしまった。マリア 様の後光も消えて、いつも通りの風景に戻った。ほんの数分のスペクタクルだった。
マリア様が話していて、周りの聖人達が、それを熱心に聞いていた所までは理解できたのだが、マリア様が何について語っていたのかまでは分からなかった。私はマリア様の言葉を理解する能力が決定的に欠けていたからだ。何か大事な事を言っているのに、言語能力のせいで理解できないのは、なんとももどかしかった。マリア様の言葉を、もっと理解したいと思ったのは、その時からだった。

偶然居合わせた二人のミラネーゼ

ふと、目をカメラから上げると、たくさんのミラネーゼ達が足早にどこかに向かっていた。夜の7時半くらいだった。ドゥオモ広場には、家路に急ぐ人や、食前酒を飲みに行く人もいたことだろう。群衆はいつもの様に忙しくしていた。このドラマチックなシーンを見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。2人とも、私の近くにいた。そこが広場の中でも最も良く 見えた地点だったからだ。
私たちは目を合わして、「 Bellisima!見ましたか?」「 Incredibile!こんな不思議な光景、初めて見ました」などと言って、その信じがたい出来事について興奮して話した。彼らは、その体験を共有した仲間だった。もし、写真がよく撮れていたら、是非連絡をくれないかと、その初老の紳士達は、二人とも彼らの名刺を私に手渡した。
それは、小さな奇跡、大いなるものからのメッセージとでも呼ぶべきなのだろうか。それ以来、ミラノのドゥオモのマドニーナを見上げる度に、感謝を含んだ謙虚な気持ちが沸き起こるようになってきた。 

その数ヵ月後、カフェのテーブルで友人達と私が撮りためていた作品を見ていた時に、その場に居合わせた1人から「ミラノの冬の夜の風景で写真展をやらない か?」と持ちかけられた。その頃、私はミラノに来てまだ日が浅く、自分の住む街に敬意を表し、自己紹介の挨拶のつもりで、その話にすぐ乗る事にした。
ミラノの冬は湿気が多く霧がちで、光が空気の中をゆっくりと進む。ひたすら夏と海が好きなイタリア人たちは、 ミラノの厳しい冬に文句を言うのが定番なのだが、私はそんな冬の光を眺めながら歩くのが大好きだったのだ。ミラノの夜の風景がテーマなので、当然ながらマリア様の写真も、その一つとして飾る事にした。
ドゥオモ広場で一緒にスペクタクルを見ていた二人にも招待状を送った。マリア様の良い写真が撮れていたら、個人的に連絡を取ろうと思っていたのだが、偶然にも展覧会に招待できる運びとなってしまったのだ。
彼らは二人とも初日のオープニングパーティーがはじまる時間の前に、すでに会場に現れて、あの写真はどこだ?とまっ すぐにマリア様の写真の前に歩いていった。数ヵ月たったのに、まだ全く興奮が冷めていない様子だった。すぐに写真を買うことに決めてくれて、オープニングを待たずに、お買い上げの赤丸がついた。彼らは、あの写真が合成写真でもデジタル加工したものでもないことを証明する証人でもある。

写真にまつわる小さな奇跡

私の小さな奇跡的な出来事と写真を人に分かってもらいたいとは思うものの、これらの事は分かる人には分かるし、分からない人には分からないものらしい。合成写真と思う人は、そう思えばいいし、写真にまつわる奇跡を信じ られない人がいても、それは私にはどうにもできない。しかし、私には人の評価などはどうでも良い事に思えた。マリア様とのコンタクトの方に、気がとられていたからもしれない。
ある友人は、「仏教とキリスト教が高い位置で交差しているように思えた」という感想をくれたし、別の友人は「マリア様のメッセージを聖人達が聞いているんだね?」と言ってくれた。むしろ、驚いたのだが、分かる人には的確に伝わっていたのだ。
イタリアのメジャー新聞の一つである「リパブリカ」に写真評論家が、とても良い論評を書いてくれた。「un giapponese:sotto la luna di Milano」(ミラノの月の下の日本人)というタイトルでミラネーゼ達が見落としているミラノの美しさを日本人が見つけてくれたという内容だった。私にとって、イタリアで最初の写真展は盛況に終わった。

[忙しく行き交うミラネーゼ達] 

落とし物、メッセージ

しかし、あの三脚は誰が忘れたものなのだろうか?三脚が道端に落ちている風景を私は、あれ以来見た事がない。あの三脚がなければ、写真が撮れなかっただけに、あの落とし物の価値が、私の心に迫ってくる。
「マリア様は一体何を伝えようとしていたのだろう?」
メッセージを発していたのに、私はその言葉を解する事ができなかった。どうやって、彼女の言語を覚えれば良いのだろうか?
とりあえず、マリア様に感謝の気持ちを伝えてみた。そんな私の小さな試みが、信仰という人類の壮大な試みにつながって行くのかもしれない。なんといっても今では、そんな私の妄想が、帰依の心を作り出し、人生の支えとなってしまったのだから。
あの日、あの光景を見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。夕方のドゥオモ広場にはたくさんの人が行き来しているのに。私たちが普段、気がつかないだけで、あんな光景が毎日どこかで繰り広げられているのかもしれない。


1 comment:

  1. ドゥオモ教会の会堂で
    クラシックのコンサートなんか聞けたら
    死ぬほど幸せでしょうね
    例えば、アヴェマリアなんか
    男性テノールで聞けたら・・(恍惚)

    ReplyDelete